朝のウォーキングで、時々会う、70代ぐらいの女性がいるのですが、その方と会うのが苦痛な自分がいます。

会って、会釈をする程度で、挨拶はないのですが、なんだか嫌な感じなのです。

自分の中に、「挨拶はきちんとすべきだ」という観念があり、これ自体は人間関係を良好にするためには、当たり前だったりするんですが、なんか嫌なのです。

別に他の人も含めて挨拶も含め人と会うのが、嫌な時があります。

面倒だったりするんです。

会うことが苦痛で、会う前から会わないでいられたら楽に思うことがあります。それは、この女性だからというのではなく、他人に対してです。

うーん、これって結構、根深いかもしれません。今思うと、自分のパターンになっている。

子供の頃、人が家に訪ねてくると、よく隠れていました。あの時と同じ感じです。

今は、人嫌いではないと思っていたのですが、まだ残留物のようなものがあるようです。

すげー、根深い。

何が嫌なのか、何が苦痛なのか、何がそういう感情をわき起こさせるのか。

気を遣うのが嫌なのかもしれません。意識を向けないといけない感じ。有り体にいえば

「人を愛さなければならない」

かもしれません。これは、観念。

自分の中に愛は大事だってのがあるじゃないですか。これも一つの観念。

愛は大事だから、愛さなければならない。これが自分を縛っている感じがします。

また、人を助けるのは素晴らしい(ひとつの観念)と思いながら、助けることが大変(また別の観念)だから、助けたくない自分もいる。

これは、矛盾しています。ですから、心地が悪いのです。

たくさん、いろいろな観念があるので、混乱してしまうのですね、たぶん。

これって、簡単に言うと、「観点が移動している」ってことです。

主義一貫して、「これが私の観念」ってものがあると迷ったり、揺れたりしないのでしょうが。

こういう時は、観念を手放すのがよいと思いました。すべて手放す。

どうせ、観念は創られたものですから。

先日、読んだバイロンケイティさんのワークでどんどん手放していきました。

とても楽になります。

パワーがもどってきました(^^)。