誰でも経験することの1つとして苦しみがあります。

何に対して苦しむかは人それぞれであり、主観的なものです。

同じ経験をしても苦しむ人もいるしそうでない人もいます。

ここ最近、いろいろな信念が吹き出しているのか、いろいろな感情を感じます。

そのひとつが恐れから来る苦しみです。恐れが第一感情でそれを感じたくないと抵抗しているので苦しいのです。

この苦しんでいる時の状態はその苦しみそのものになっています。つらくて、どうしようもない状態で、自分では何もできない無力感に苛(さいな)まれています。

釈迦は生きることは苦しみであると言ったそうですが、本当にそうでしょうか?

今、私が実感しているのは

「生きることは苦しみである」

自体が信念となっているからこそ、苦しいと感じてしまうということです。

病気や怪我などで痛みなどを感じて苦しい時、自分の信念とは関係ないと思うと思います。

「痛いから苦しいのは当たり前」

こう思ってしまうわけです。

だから、原因が外にあって、そのために苦しむのだという考えが一般的です。

人は苦しみを取り除きたいと思って、外側を変えることをずっと続けてきています。

これは時には上手くいき、時には上手くいかないこともあります。

釈迦は中道を唱えたそうです。これはある意味、何ものにもとらわれない執着しないということです。

中道という言葉ですが、私はこの言葉に過去惹かれました。そして今、なぜ惹かれたかわかるような気がします。

「生きることは苦しみである」。「生きることは楽しみである」。

このどちらも信念にすぎないということです。

釈迦の執着を捨てるということは経験することへの欲求と抵抗を捨てることとも捉えられます。

すると観察者としての視点、高い自己、ハイヤーセルフ、トータルセルフの視点になっていき、これが悟りや覚醒ということなのだと思います。

観察者としての視点となると、すべてを受容できる状態になっていて

この時、一般的に感じる感情を感じていながらも、まるですべてを許している感じなのかもしれません。