このところ、いろいろな気づきがありましたので、いろいろまとめて書いていきます。

I am that

というニサルガダッタ・マハラジの本(本人が書いたのではなく、質問への回答を記録したもの)

を再読したり、リビングデリバレートリーを合間に再読したのですが、先日からテーマにして書いていて釈迦の般若心経とも相通じるものがあり、頭がいろいろ整理されてきたように思います。

要するに、いろいろな覚醒や宗教なども同じことを言っているように思います。もちろん、言っていることが微妙に違ったりはするのですが、同じものを別の角度から見たに過ぎないというか、単に観点の差ではないかということです。

本題です。

すべてのものごとは限定があります。

例えば、物質は限定されてます。非物質でさえ、限定されています。

名前があるとそれは限定となってしまうのです。

例えば、本と言ったら、本以外のものは本ではありません(当たり前ですが)。

素粒子はどうでしょう?素粒子はすべての物質の源ですが、素粒子ではないものもありますから、やはり限定されたものです。

意識はどうでしょう?これもやはり限定されています。意識ではないものもありますから。

すべての物質や非物質の限定を外すと、気づきとなります。この気づきが空や実在や真我や大いなる全てと言われることもあります。

ただこのように言葉にしてしまうとやはり限定されてしまうので、実は言葉にはできないのですが、説明の便宜上として言葉として定義しています。

少し前に悟りについて語りましたが、もし、悟りを空体験することだとすると、悟るためには限定を外していくことが有効です。

すべて外していくとは、例えば

・本を本と見ずありのままに見る
・自分を自分と見ずありのままに見る
・...。

こんな感じでありとあらゆるものをありのままに見ることです。

ありのままに見ていくと違いがなくなります。

まったく違いがなくなると、それはひとつとなり、自分と区別がつかなくなります。

私自身はこれが気づきかと感じたことはないです。ただ、「私は在る」という感覚になったことがあるだけです。

この感覚からさらに「私は在る」が外れると空(気づき)になる?かもしれませんが、まだわかりません(笑)。