殺し屋。3人いる。一仕事を終えて、ホテルか何かに戻ってきている。風呂に入ったが、別の部屋の住人が叫んでいる。2Fの風呂はその住人用なのだが、殺し屋の一人がその住人用の2Fの風呂を使ったらしい。車の中、一人の殺し屋が座っている。侍のように後ろを束ねていて、顔はアニメのキャラクター。私が別の椅子に脚を組んで座る(殺し屋の一人目線)。椅子はソファーのような椅子で、3人が対面できるように配置されている。

別の夢をもう一つ見たが、まったく覚えていない。ただし、嫌な夢ではなく、どちらかというと心地がよい感じ。

眠りが浅いとよく夢を見ます。単に覚えているだけかもしれませんが。

思考優位になると、不安、悩み、苦しみを生み出しがちです。ただ、これを止めることはできません。

勝手に出てくるのですから。ですから、見つめることしかできません。本当に。

自分で浮かんでくる自分の考えや感情をコントロールすることはできません。浮かんで来た後にしか対処できないんです。

だから、それは、起こることが起きたとしか言えません。

自分ではどうしようもないのですから、受け入れるしかありません。

「人には選択する自由がある」

と言いますが(私も過去にはそう思っていましたし、今でもそう思うこともあります)、こう思うこと自体は、自分がそう思おうとしたのではなく、浮かんで来たんです。

何を言いたいかというと、主体であるはずの自分が起きているすべてに何も携わっていないということです。

そして、自分の存在さえもです。ただ生まれてきて、死んでいきます。

普段、人はこういうことを意識しないで、無意識に生きているのですが。

今日はこんな気づきを得ました。が、これさえもまた起こることが起きたに過ぎません。