私の場合、そういう傾向があります。

わからないから学ぼうという場合もあるのですが、

わからない⇒自分には無理⇒ネガティブモード

こうなると、沼に入り込んで足が取れないような感じで、ずっとそこにいる感じになってしまうのです。

例えば、何か病気になったとします。

病院にいっても原因がよくわかんらなし、治らない。

こうなったら、自分は治らないのだからダメだとか、なりがちなのです。

うん、でもここから抜け出さないでずっと、ダメな自分を経験したくはないではないですか。

だから、そこから抜け出すのにいろいろやるわけです。

例えば、

わからない⇒わからなくてもいい

こう思えたら、わからないことがさほど重要でなくなる。わかることに執着しなければ、いいだけです。いわゆるあきらめです。

これがひとつの方法。

もう一つは、

わからない⇒わかるようになればいい

これは、わからないなら、わかる人に聞くなり、わかるようになるまで学ぶなりして、いくことです。いわゆる成長です。

これもひとつの方法。

他にも方法はあると思うのですが、まあこの2つだけでも十分。

どちらがいいとかはありません。

言い方はよくないですが、所詮、目くそ鼻くそです(笑)。

同じようなものです。どちらにしても不安解消につながればいいから。

ただ、わからないことを考えてもしかたがないんです。そういう場合は、前者を選ぶ。

例えば、死ぬこと。死んだらどうなるか?

こんなことを考えてもわかるわけがない。これは、釈迦が言っていることでもありますけど。

死後の世界?輪廻転生?死んだら終わり?

どれをとっても、どれが正しいなんてないです。

釈迦は弟子に死んだらどうなるか聞かれて、「そんなことより今を生きよ」と語りました。

わからないことを考えても仕方がないからです。

釈迦だってそんなことを知らないし、知ったこっちゃないし、知りたいとも思ってなかったでしょう、たぶん。

白取さんの本を読んでいて、釈迦の教えってとてもよいと感じました。釈迦の教えが、仏教じゃないからです。

今の仏教はどちらかというと、キリスト教に近いと白取さんは語ってましたが、なるほどと思いました。

そもそも釈迦の教えは、苦しみから脱却して、悟りを得ることであり、祈ったり拝んだりすることじゃないからです。

釈迦は瞑想をして悟りを得ましたが、それは、座って目をつむることだけではなく、生き方そのものが瞑想だったようです。

なるほどと、関心してしまいました。

今を生きながら、悟る。

いい感じです。